日本海に結ぶ友情の絆
 厚田中学校2年生

 

1.子ども親善大使の始まり


  私たちは「石川県との交流がなぜ始まったのか」を知りたいと思い、この交流が始まった14年前の事情に詳しい、教育委員会次長の小林さんにお話をうかがいました。

Q 厚田村子ども親善大使はなぜ始まったのですか。
 「 厚田村は石川県門前町(まち)と平成3年6月1日に友好町村の締結をしました。日本海に結ばれた友情の絆という理由です。そして翌年に、厚田村の「子ども親善大使」が門前町役場を訪れて、門前町長に厚田村長のメッセージと記念品を贈り、 共通の財産である日本海をもつ町村の今後の交流を誓いました。今回がその14回目ということになります。
 「日本海に結ばれた友情の絆」というのはどんなことですか。
 厚田と門前が、日本海でつながり北前船で結ばれていたということです。皆さんがこれから訪問する門前町に、北前資料館というところがありますから調べてみてください。
 ありがとうございました。

2.北前船とは


  小林さんからいただいた北前資料館のパンフレットや、「厚田百話」などから北前船について調べ、次のようなことがわかりました。

 

・江戸時代から明治中期まで沿岸航路の主役だった。
・大きな船は長さが30mくらい。
・毎年6月にやってきた。
・蝦夷地と上方(大阪・京都)を結んだ。
・航海にはおよそ3ヶ月かかった。
・日本海の荒波を越える危険な航海なので、積み荷は仕入れ値の10倍近い価格で売れた。
・北前船はばく大な利益をあげることができた。

3. 北前船と厚田村


  北前船がやってきた函館、松前、江差、余市、小樽などの港は、ニシンや昆布などの海産物が豊富なだけでなく、自然の地形が防波堤となる「天然の良港」だった。
厚田では、地図のように古潭に、「弁天ぞりと中瀬」という自然の防波堤があり、北前船が入るのに適した港になっていた。当時は押琴(オショロコツ)湾と呼ばれていた。
        

 ↑古潭の古い地図         ↑今の古潭

4.厚田と加賀のつながり

  北前船ができる前、蝦夷地の産物は、日本海を通って福井県の敦賀港に荷揚げされ、陸路から琵琶湖を経由して京都や大阪に運ばれた。
何回も積み降ろしをしたために、輸送費がかかること、荷がいたむことが問題だった。
 この問題を解決するために、加賀藩(今の石川県)は三代藩主 前田利常の時代に、山陰を通って日本海に入り瀬戸内海経由で大阪につながる航路を開拓した。 
 やがて、加賀の商人「北前船主」がこの航路を独占し、蝦夷地と上方を結ぶ交易の主人公として、莫大な富と反映を加賀にもたらした。蝦夷地と上方を結んだ北前船のふるさとは、加賀だった。


   北前船のふるさと 
   門前町北前船資料館 

5.厚田のニシン漁

 北前船が厚田に来たもう一つの大きな、理由はニシンの漁獲高がとても多かったことだ。
  いろいろ調べていくうちに、厚田神社に「ニシン豊漁の記念碑」があることがわかった。
「昔はクマやオオカミが巣を作っていたのに、今は人家が隙間なく並んで街となった。」
「町の様子は戸数 483戸、うち漁業家158戸、人口2400人、季節に使っている漁夫4100人くらい。店舗、道路 役場、学校、病院が新築され、数年の間にして昔の様子がすっかり変わった」
「明治24年のニシン漁期には、風の神は暴威をふるわず、海の神は怒りを発せず、本郡始まって以来はじめて五万石あまりの捕獲を得た」と書いてある。
五万石のニシンは、今のお金にすると約375億円になる。
厚田でとれたニシンを煮て肥料に加工したものを上方に運んだ北前船がどれほど大きな利益をあげていたかがわかる。


6.厚田と石川県 日本海を結ぶ友情の絆

 厚田の網元で、大富豪だった佐藤松太郎は、明治25年頃から、石川県の寺谷家と協同の弁財船「長栄丸」を持って、弁財船経営をしていた。今、厚田にある戸田旅館は、佐藤松太郎が建てた建物で、当時の経済力の大きさを今に伝えている。
  ともに結びつきを強めながら栄えてきた二つの地域だったが、明治の中頃から、鉄道の発達や鰊漁の衰退などで北前船は衰え、当時の勢いを失っていった。
  そんな石川県と厚田村だが、今もつながりがあるのは、結び付きが強かった時代に移住してきた人がいて、人や文化のつながりを持ち続けているからだ。望来の獅子舞は、石川県の隣の富山県からの移住者が伝えた伝統芸能である。
 私たちは最後の「厚田村子ども親善大使」として石川県に向かう。今年で、この交流事業は終わるが、ふるさと厚田を思うとき、この日本海の向こうに確かにつながってきた「友情の絆」をいつまでも大切にしていきたい。